ワインのあるショートラブストーリー

恋とワインのABC Vol.3 バタール・モンラッシェ

・・・・・登場人物:安住由梨(図書館勤務、私) 安住剛(アズミゴウ 由梨の夫) 高木新(タカギシン、由梨の恋人)

もう20年になるんだ。20年・・・。でも何も変わっていない。大きな喪失以外は。
私は通いなれたはずの道を、初めて見る景色のようにも感じながら急いだ。

高木新と出会ったのは20年前の夏だった。

32歳の私の誕生日に「好きなものを買って良い」という夫の言葉に、目の飛び出るほど高価な宝石でも買ってしまおうかと思ったが、長い間弾きたくても、忙しいとか余裕がないとかという自分自身の言い訳で何年もの間弾くことのなかった、ピアノを買ってもらうことに決めた。かと言って、アコースティックではなく夜中でもいつでもヘッドフォンで音が聞ける「キーボード」というのが欲しいと思った。タッチは普通のピアノと程遠いけれど、音は以前と比べると信じられないくらいアコースティックに近い音が楽しめる。夫の安住剛は忙しく、男の39歳といえば働き盛りで、毎日帰りは日付を超え、土曜日は疲れ果てて眠るのが日課、日曜日の半分は付き合いのゴルフなどに費やされていた。私は週の3日、図書館で働いていた。
ひとりの夕食、ひとりで過ごす日曜日にも意外とすぐに慣れて、それはそれで心地よい生活を送っていたのだった。

図書館は自宅のある最寄のふたつ先の駅にあり、図書館と駅の間にある楽器店が以前から気になっていて、私はピアノを物色するため仕事帰りのある日その店に立ち寄ってみた。
1階はアコースティックのピアノが、地下はエレクトリックギターをはじめとする弦楽器など、2階にシンセサイザーなどのキーボードとDTMなどのマシン類が置いてあった。小さな町の楽器屋さんという感じで、バンド活動をしている高校生や大学生がよく立ち寄っているようだった。
2階への階段を上っていくと、誰かが弾いているピアノの旋律が聴こえてきた。クラッシックではない、聴いたことのない曲、少しジャズっぽいアレンジ。きれいな曲だと思った。ちょっぴり寂しい、そして月の明かりのように穢れの無い美しい響き。反射的に靴音が聞こえないようにそっと足を運んだ。2階のフロアにいくつか並んだキーボードのひとつに向かい、それほど熱心そうでもなく、いい加減な様子でもなく指を運ぶシンの姿を見つけた。後姿でピアノを弾く彼は少し猫背に見え、そのピアノは小さく見えた。
どのくらいの時間彼の後姿を見つめていたのか分からないけど、おそらくそれほど長くなかったと思うのだが、不意に彼が私の気配に気付き、驚いたように振り向いて椅子から立ちあがり私と正面で向き合った。シンの前髪がさらりと落ち、眼鏡越しの目にかかったのが、スローモーションのように映った。
その瞬間、私はもしかすると最後の恋というものに落ちてしまったのかもしれない。
シンはそのあと戸惑うように「いらっしゃい・・・ませ」と取って付けたように言ったので私はおかしくなってふき出してしまった。彼の胸に店長 高木新と書いたネームプレートが付いていた。その日、シンにキーボードを選んでもらい、夫のカードで支払いをし、次の休みに届けてもらうよう用紙に記入した。
「安住由梨さん、ですね。」やや低めの柔らかな声が訊いた。
「はい。日曜日に届くと嬉しいんですが。」
「日曜日ですね。大丈夫です。」
「そういえば、さっきの曲、なんていう曲ですか?」
「あ・・・あれは、でたらめです。」
「オリジナル?」
「といえば少しはかっこいいかな。」とシンは照れるように笑った。

それから私は譜面を探すなどの口実でシンの店に週1度ほど通い、彼が不在時や接客中はちょっぴりがっかりしてそのまま家に帰った。
それでも私のためだけにあの曲を弾いて欲しいという切ない夢は意外と早く叶い、シンとの付き合いは世間で言う不倫になるけど、私にとっては後ろめたいという意識がなく、すべてを失っても仕方がないと思うくらい大好きだった。シンは私より7つ年下で25歳だった。
お店は彼の父親の持ち物で兄は楽器店を継ぐのを嫌がり、シンがとりあえず店長として店に出ていた。贅沢といえば贅沢な話でもあるけど、それほど儲かるものでもなく厳しいという話だった。私はシンの部屋に毎日行っていたわけではなく、多くて週1度、あるいは月に1度、駅前のデパ地下で適当につまみを買い、ワインを抱えて彼の部屋に行き、ワインを飲みながら私は本を読み、シンはピアノを弾いて、知っている曲だと私は酔って歌ったり、ピアノの椅子に彼と並んで座って好きな曲をリクエストしたりしてシンを困らせた。ほとんど日付が変わる前には私は家に帰った。

・・・・・

そして20年もの長い間、なぜこんな生活が続けられたのか、それはずっと後になって分かった。
お正月も過ぎたころ夫の剛が体調を崩し入院した。59歳になっていた、まだまだ若くリタイア後をこれから楽しむ年代なのに。私にだけ医師から深刻な病状が告げられた。バチが当たったのだと、私は思った。私はしばらく仕事を休み毎日病院に見舞いに通い、剛の望む些細なこと(食事を食べさせて欲しいとか、洗濯をし着替えを揃えて欲しいとか、暖かいタオルで拭いて欲しいなど)を世話していた。はたから見ればかいがいしい奥さん、と映ったかもしれない。剛が喜ぶのであればなんでもしたいと思っていたのは嘘ではない。
そんなある日、剛が「由梨、お願いがあるんだけど。」と改まって言った。
「なぁに?」
「高木君を呼んでくれないか?」剛は表情を変えずに穏やかに私を見た。
私は驚きのあまり、剛を見つめたままだらしなく立ち尽くして、やっとかすかにうなづいた。
次の夜、私の話を聞いて同じように驚いたシンが面会時間ぎりぎりに遠慮がちに病室に訪れた。
剛は攻めるようでもなく、むしろ淡々とした静かな口調で尋ねた。
「知らないと思っていたのか?」
「いつから気付いてたの?」
「由梨の32歳の誕生日のあとからだ。」なぜ今まで何も言わなかったのかと問いかける前に彼が続けた。
「いつどうやって君を懲らしめて追い出してやろうかと思ったときもあったよ。でもだんだんそんな事はどうでもよくなった。君はいつも笑顔で家にいてわたしを待っていてくれた。それがすべてだと。そう思うまでずいぶん時間がかかったけど。だから、そろそろ由梨を解放してもいいと思った。」
「解放って・・・」
「わたしと別れて自由になりなさい。」
「自由だなんて・・・もう若くないよ。」私は半分泣きながらそんなことはありえないというように笑って言った。図々しいようだけれど剛と別れることを真剣に考えたことがなかった。
「は、は、は、ざまをみろ。」剛はおどけるような口調で言ったが、すぐに苦しそうな表情になりシンに向かって、
「由梨を好きか?」と聞いた。
シンは泣き出しそうに「すみません。」とだけ言ってうつむいた。
ゆっくりと剛が手を伸ばし何かを握るようなしぐさでシンに向かって差し出した。
「バトンタッチだ。」
その手からシンは見えないバトンを受け取り胸元で握り締めた。
そして剛はため息をひとつついて「疲れた。ひとりにしてくれ」と私たちを帰した。
私とシンはしばらく待合室のソファに座って子供のようにめそめそと泣いていた。ひとりきりで剛はもっとつらい気持ちでいるのかと思うと帰れなかった。私のせいだ。私達のせいだ。そう思うことさえ傲慢で剛を傷つけることなのだった。

それから剛は奇跡的に回復し、私やシンを呼びつけては小さなわがままを言い、あの本が読みたいだのあのCDが聞きたいだのと持ってこさせたりした。
3月、春の気配がするころ、いつものように病室で洗濯物の入れ替えをしているとき、剛が尋ねた。
「なぁ、由梨、今までで一番楽しかった思い出はなにかな?」
「う〜ん、そうだね、やっぱり新婚当時行ったハワイかなぁ。日焼けしすぎて痛かったよね。」と私は笑った。
「忙しいって言い訳で、長いことどこへも連れて行けなくてごめんな。」
「いいよ、元気になったらまた連れてってもらうから。」背中を向けたまま、私は少し涙ぐんだ。
「どこに行こうかぁ」と振り返って剛を見たとき、彼は目を閉じて眠っているようだった。

私への最後のことばがごめんだなんてあまりにも悲しかった。
家に帰ってももう待つ人はいない。家具や食器のひとつひとつが剛は二度と戻らないと私に教えるだけだ。
私はシンに半年間、もしかしたらそれ以上、会わないことを勝手に宣言し、家にこもって帰らない何かを待つ日々を過ごした。

・・・・・

夏が過ぎ、夏の面影が残る9月の半ば、半年振りにシンに電話をした。
電話の向こうで彼は大きく息を吸い込み「おひさしぶり」と安堵したように言った。
「今日、そちらに行ってもいいですか?」と訊くと
「はい、待っています。」ゆっくりと彼が言った。

トートバッグに白ワインのボトルを入れ、どこかにぶつけたりしないように気をつけながら、初めて見るような、懐かしいような気持ちで彼の部屋への道を急いだ。日差しはまだ強く、蝉がまだあちこちで鳴いていた。
ドアフォンの呼び鈴を押す指が少し震えた。
ドアを開けて迎え出た彼はちょっぴりまぶしそうに私を見た。さらりと前髪が目元にかかった。

部屋は以前と変わっておらず、ソファーやピアノの位置、テーブルの様子も同じで私を安心させた。ワインを手渡すと、
「バタール・モンラッシェ」シンはラベルを読んで声を出さずに「おぉ」と言う口元をし、ワインをそっと冷蔵庫に入れた。
私たちはしばらくこの半年のことをポツリポツリと語り合った。
ワインが適度に冷えたころ、丸いふくらみのある形の大振りなワイングラスをテーブルに並べ、グラスの底に控えめに注いだ。
「まだかな」
「もうちょっとだね」ふたりでグラスを見つめた。
「ねぇ、シン。20年もの間・・・ごめんね。」
「僕の青春を返して下さい。」シンは目の奥でいたずらっぽく笑っていた。
その時、気付いた。彼に対して20年もごめんねなんて、おこがましくもあり私の思い上がりだ。彼の人生は彼が選んで彼自身が創り上げてきたものだ。だから私から歩み去る自由だってある。そう思ったら心細くなって、彼を見つめ返した。
「僕にとって20年よりもこの半年あなたに会えなかったほうがずっと辛かった。僕のことを忘れてしまって、もう二度と会えないような気がした。剛さんがあなたを連れて行ってしまうんじゃないかとも・・・」
そして彼はグラスの足に添えている私の左手を両手で包んだ。指の長いスマートで大きな暖かい手は今も変わらない。
「僕はあなたが好きです。今までもこれからもずっと。」
こんなありふれた言葉で彼はなぜこんなにも私の心を打ちぬくことができるんだろう。
私は彼の手に右手を重ねて、泣きたい気持ちを抑えながら高飛車なニュアンスで言ってみた。
「あなたの青春は返しません。これからも大切な時間を奪ってゆくつもりです。」
「望むところです。」そう彼は言い返した。
私たちはグラスを持ち、深呼吸するようにその香りを嗅いだ。白い百合やバラの華やかな花の香り、ハチミツ、オレンジ、杏のコンフィチュール、ナッツやバター、豊かな香りにめまいがしそうなくらいだ。とろりとさえ感じる舌触りに上品な甘さと相反する切れの良さ。どこか肉感的でもあり、優しい味わい。
私たちはため息をついた。
「20年前のあなたみたいだ。」シンが微笑んだ。
一瞬初めて出会った日のことが昨日のことのように鮮やかに胸によみがえった。

シンがふと片手を開いて見つめた。
「本当に許してくれたのかな・・・僕でよかったんだろうか。」
「そんな事言ったら剛に怒られる。」
「そうだね。」
心がまだ痛かったけれど、時はゆるやかに動き始めていた。


モンラッシェといえば、脱帽してひざまづいて飲まなければいけないような高価なワインさまなのですが、バタールモンラッシェを初めて口にしたのはとあるワインバーの試飲でした。そのとき一緒に行った相棒はピュリニーモンラッシェの1Cruを持ってきてて、テーブルに並べて香りを比べたりしていたのです。ピュリニーの方が香りが立って「え〜〜バタールよりもいい香り」と何だかうらやましい気分でした。なのですが、数分後、それは逆転しました。高価な白ワインなぞ飲み慣れない私としては「こんな夢見心地の香り、今まで知らなかったわ、めまいがしそう。」ってなもんでした。お店ではボトル販売もしていて3万円台でした。ひょえ〜〜。どちらも作り手を失念し残念。
バタールモンラッシェ、モンラッシェの私生児、なんともあっけらかんなネーミング。ちなみにビアンヴニュ・バタール・モンラッシェのビアンヴニュは「ようこそ」うわ〜〜!「ようこそモンラッシェへ、クッククック、私の私生児、パヤッパヤ♪」(分かる年代が限られる?)
というわけで、羊たちの沈黙のレクターさんもお好きらしいバタールモンラッシェはいろんな妄想をかきたててくれる素敵なワインなのでした。このワインを一緒に飲むのはやはりちょっと人目を忍ぶような関係の恋人とがいいなぁ。なんて不謹慎ですかね。このストーリーの由梨さんは石田ゆり子さんのイメージです。背徳的立場に立っても何だか清い感じがします。

写真のバタール・モンラッシェは2008年の夏に購入し飲んでみました。想像していたのと全く違い、振られた感があります。とほほ。作り手によっても違ってくるワイン・・・これはドメーヌ・ポール・ペルノのものでした。かなりドライで鉱物?石灰?不思議な香りが含まれていました。15800円でした。それなりに楽しめた価値はあったかもしれません。
 

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