ワインのあるショートラブストーリー

恋とワインのABC Vol.4 ドゥラモット・ブリュット ブラン・ド・ブラン

・・・・・登場人物:高橋久尚(私 52歳 会社員 父) 高橋由果(21歳 娘)

「本当にひとりで行くの?」由果が不審そうに訊いた。
「たまにはいいだろ、骨休めだよ。」
「ひょっとして女の人と一緒だったりして?」由果がからかうように覗き込んで言うので
「ばーか」と、由果の額を指先で小突いた。
たった一泊の旅支度をする様子を由果はソファーで両膝を抱えて見ていた。
「お父さん、変なこと考えてないよね。」
「変なこと?」
「ほら、その・・・最近サラリーマンに鬱病が多いってニュースでやってたから。」
何言ってんだか、という表情で笑って見せた。
最後に、ホームセラーから、シャンパーニュを1本引き抜いて、無造作にタオルにくるんでバッグにそっと入れた。
「高いワイン、勝手に飲むなよ。」人差し指を立てて念を押すように言うと
「はーい、分かってます。行ってらっしゃい、気をつけてね。」と由果はソファーに座ったまま手を振って笑った。

都内のマンションから車で3時間ほどの海辺に建つこのホテルはあまり知られていない。
フロントに向かって歩くと、大理石の床に靴音がきれいに響く。
フロントには他に客は誰もいない。
「高橋様、お待ちしておりました。」品の良い笑顔と柔らかな声に迎えられた。
カードキーを受け取り、ゆるゆると昇るエレベーターからは遠くなる地上が見おろせた。
部屋はひとりには広すぎるけれど、リビングから続くテラスからは一面に海が広がって見え、なんともいえない開放感がある。
7月の海はまだ明るいブルーだ。

予約時に頼んでおいたワインクーラーには少し溶けた氷が入っている。
シャンパンボトルをその中にガサリと入れ、まずはシャワーを浴びることにした。

シャワーを浴びながらふと、由果との会話を思い出した。
娘にあんなふうに心配されるなんて、情けない。
と思いつつも、少しだけくすぐったいような嬉しい気持ちになる。心配してくれる家族がいるということは幸せなのではないか。
思えば、こんなひとり旅は初めてだ。 大半の時間を仕事に費やし、妻の世間話や娘の教育のことなどを疎ましく思い、家族の約束を破り続け、気づいたらひとりになっていたのだ。
由果は、別れた妻つまり母親と私の間を自由に行き来しており、
「めんどくさいから一緒に暮らしてよ。」と冗談めかして言うことがある。 そんな風に寂しさを顔に出さない分、親としては申し訳ない気持ちになる。

テラスに出て、しばらくぼんやりと海を眺めていた。
由果の言うような「変なこと」は考えはしないが、時々いろいろなことが「無意味」に感じる瞬間がある。
「なぜ?」という疑問詞は一度暴れだすと止まらなくなる。
小さな子供が好奇心に満ち溢れて訊く「なぜ」とは全く違う、絶望に近い「なぜ」だ。
なぜ毎日早起きしてラッシュに揺られる?
なぜ理不尽なクライアントに頭を下げ続ける?
なぜ部下の尻拭いをしなければならない?
なぜ仕事を優先してきたことが悪いのだ?
なぜ家族は離れていったのだろう?
なぜ日々時間に追われながら生きて行かなければならないのだ?
何のために生きるのだろう。

生きる意味?
ふと由果の不審そうな表情を思い出した。
こういうことを考えることが由果の言う「変なこと」なのかな、と思ったらふっと笑ってしまった。
そう、私はたぶんとても疲れているのだ。

ワインクーラーの氷が溶けてカサリと音を立てた。
ワイヤーを解き、コルクを慎重に抜いた。
小さく「シュッ」と音がして、その瞬間ボトルの中で目覚めるように泡がたった。
フルートグラスに注ぐときめ細かな泡が勢いよくたち、グラスの底から絶えず小さな泡が螺旋を描きながら昇り続けている。
ドゥラモット・ブリュット ブラン・ド・ブラン
ブリオッシュのような甘いイースト香、グレープフルーツのようなフレッシュな香り、 ピュアで、キリリとしていながらどこかソフトで優しい味わい。 ひと口飲んでグラス越しに海を眺めた。

そのとき、海をなめて吹いて来た風が頬をなでた。
海面は小さく波立ち、金色にきらきらと輝いている。
階下の樹木が風に揺れて、葉ずれの音がまるで遠くから響く拍手のようにサラサラと鳴った。
それは、「ここまでよくやってきたじゃないか」「オマエはがんばったよ」そんな風に言っているようだった。
「そうだよな」危うく涙がこぼれそうになったので
「ばか、男だろ。」Tシャツの肩口で瞼を拭い、シャンパンを飲み干した。

由果に電話をしてみた。
「寝る前に戸締りをちゃんと確かめるんだぞ。それから、」
「高いワインは勝手に飲むなよ、でしょ?」と由果は笑った。
「由果のバースデーヴィンテージのワインは由果のものだよ。」
「あれは、大切だからまだ飲まない。」
「そういえば、お母さんは元気にしてるか?」
「もう!お母さんも、お父さんは元気?ってよく訊くよ。電話して直接訊いて。」
「そうだな。 由果、こっちに遊びに来るか?」
「何言ってるの、レポートがあるから行けないよ。もう切るよ。」

直接訊いて、か。全くポンポンとはっきり言うところが母親に似てきたな。
携帯電話の彼女のアドレスにポイントして、通話ボタンを押そうと思ったけれど、やめた。

シャンパンのボトルが空になるころ、夕日が沈んでゆくのを少し冷たくなってきた風に吹かれながら眺めた。
「生きる意味を探すのが生きること? ちょっと酔ったかな。」
最後のひと口を飲み干して、夕日にグラスを掲げた。
オレンジがかった黄金色にグラスが染まっている。
夕日は燃え尽きて今日の終わりを告げるのか、明日へとつなぐプロローグなのか。
目を閉じて海の香りのする風を胸いっぱいに吸い込んでみた。


シャンパーニュはシャンパーニュ地方で作られるスパークリングワインなので、他の地方や他の国で作られたものはシャンパーニュとは呼ばず、シャンパンとか、スパークリングワインと言います。(イタリアはスプマンテ、ドイツはゼクトなどなど)でも、泡あわのワインをひとまとめにしてシャンパンと言ってしまうことも。 私はこのサイトのトップページにもボトルの写真を使っているSALONというシャンパーニュが好きで、好きなんていうと、しょっちゅう飲んでいるみたいだけど、そんなことはなく、めったに飲めない、憧れのシャンパーニュです。これまで1990,1995,1996とを飲む機会がありましたが、どれも本当に美味しいと思いました。
そして、数年前ドゥラモットが美味しいといううわさを聞いて飲んでみたら、とても好みの風味で、お値段もサロンと比べれば一桁違う(低価格)ので、ホームパーティーのイベントなどには時折選んでいました。
ドゥラモットが好きなのも、私としては当然といえば当然で、SALONを造らない年のぶどうを使ってつくる、いわばSALONのセカンド的なシャンパーニュらしい。それは後から知りました。
シャンパンは色々なお料理に合って、ひょっとしたらデザートまで通して飲めるワインじゃないかと思います。泡泡はどうして気持ちが華やぐんでしょうね。
ちなみにシャンパーニュには同郷のチーズを合わせるならば、シャウルス、ラングルがあります。その他に、ブリヤ・サヴァラン(フレッシュも、アフィネも)大好きな組み合わせです。
写真のちょっとグロなチキンの丸焼きはクリスマスの時の料理です。さばくのが大変だけど、これも、なんだか楽しくなりますよね。  

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