ワインのあるショートラブストーリー

恋とワインのABC Vol.5 ソーテルヌ

登場人物・・・・・伊田裕子(私 OL 30歳) 木村翔(同じ課の3年先輩) 由美(伊田の同僚) 三田(ワインバーのソムリエ)

 ランチはいつも同僚の由美とオフィスの一角にあるテーブルでお弁当を食べている。今日も席をキープして、ふたり分のお茶を入れるため給湯室へ向かった。由美はおしゃべりで調子の良いところがあるけれど明るくて気取ったところがないので一緒にいて楽だ。外食は月に1度ほどやはり由美と食べに行く。一度だけ木村先輩にカジュアルなフレンチレストランに連れて行ってもらったことがある。前の日に顧客への案内状の作成を手伝ったお礼にと、「あした、お礼にランチでもどう?」と誘われたから。

 木村翔は営業マンにありがちなわざとらしい明るい会話をしたりしないけれど、人の心を和ませる物腰の優しさがある。それは天性のものかもしれないし育ちなのかもしれない。ランチで面と向かいながらちょっと緊張している私に「ここのフレンチって、定食屋みたいなんだよ。ほら、カウンター越しに"はいよっ"って感じで料理を客にだすんだよね。」と笑いながら言った。私は振り返ってカウンターの方を見たら本当にそうだったので、頷いて笑い返した。
 木村先輩はワインが好きらしくそのお店には夜に食事に来ることもあるとのことで、ワインの話を少ししたけれど、私がワインに疎いことがわかるとすぐに話題を変えた。そして少し照れるような表情でやや低めのやわらかなベルベットのような声で言ったのだ。
「伊田さんは、オフィスに咲いた一輪の花みたいだな。伊田さんがいると職場が明るくなるよ。」と。
こんなセリフがぜんぜん嫌味じゃなくて、"ほんとう"に聞こえる。"本当"というのは実際にそうかどうかじゃなくて、木村翔が私をそんな風に好ましく見ているという意味。そういうところが天性かもしれないと思う所以だ。私達はほんの1時間の間、他愛ない職場の話をし今度は一緒にワインを飲みに来ましょうという軽い約束をしてオフィスに戻った。
 それから私は木村先輩が日々気になり、朝の「おはよう」のひと言、書類を渡すときの「よろしく」というひと言にさえも気持ちは敏感に反応してしまい、1日のうち多くの時間彼のことを考えている自分に気付いた。でもランチから半年経つけれどワインを一緒にという約束は果たされないままだった。

 給湯室に入ろうとしたとき、楽しげな話し声が聞こえた。木村翔の声を間違えるはずがなく、ドキッとした。けれど会話の相手が女性だということがすぐわかって足を止めた。
「今日、行ってもいいかな?」
「何時頃になるの?」
「9時頃。」
「分かった、待ってる。」
私は持っていたふたつのマグカップをうっかり落としそうになった。どうしていいかわからず由美が待つテーブルに戻ってカップをテーブルに置いて椅子に座った。
「どうしたの?」と聞く由美に「給湯室混んでた。」と答え黙った。
「そっか。お茶は後でいいよね。おなか空いちゃった。早く食べよう。」由美がお弁当箱を開き食べ始めたので私も同じように蓋を開けて箸を持った。
「ねぇ、由美。木村先輩ってさ、カノジョいるって噂?」
「え〜?知らないのぉ?秘書課の吉野さんと付き合ってるよ。ひとつ年上だよね。近いうち結婚するかもって噂。」
「そうなんだ・・・」
「やだ、木村先輩に気があるの?」
「そんなことないよ。」
「ふ〜〜ん」由美は探るようなからかうような顔で私を見た。
「勝算は5%かな。」ほぼないってことじゃない。
「だから、そんなんじゃないってば。」
「まいっか。お、卵焼き、裕子の卵焼きは絶品だよ。一個ちょうだい。」
「え〜、やだよぉ。」などとふざけていたけど、頭の中では給湯室でのふたりの会話が何度もリフレインしていた。

 失恋っていうのは何でこんな風に交通事故のようにいきなりやって来るんだろう。
今朝メイクをするときも服を選ぶときも彼に見られることを意識して楽しい気持ちでいたのに。「今夜あいてる?」なんて聞かれたら、どういうふうにこたえようかと思い描いたことも、情けないくらい愚かしく思える。ばかばか、私のばか!自分自身に一瞬怒りを感じたけれど、それはすぐに、甘やかな夢はもう何も叶わないのだという絶望に変わり、悲しいというよりもその絶望によってぼう然としてしまう感じだ。

 仕事が終わって、まっすぐ家に帰る気にもなれなかったので、ときどき行くワインバーに行くことにした。ワインバーなのだけど、私はカクテルが好きなので、そこではそのときの気分に合わせたカクテルをオーダーしている。カウンター席が10個とテーブル席が3つという小さなお店で照明が落としてあり暖かな雰囲気が好きだ。
扉を開けてカウンターの端の席に掛ける前に三田と目が合った。彼はほんのわずかな1秒にも満たない瞬間おどろいたような真顔になった。けれどすぐにいつもの優しげな笑みで「こんばんは。」と言った。
わたしは相当ひどい顔をしていたか怖い顔をしていたのかもしれない。
「こんばんは。マティーニください。」というと、「かしこまりました。」と静かに言って滑らかな流れるような動きでカクテルを作りはじめた。今日はお疲れですか?とか、荒れ模様ですね。なんて言わないところが三田の良いところだと思う。

1杯目で自分の情けなさを嘆いた。
2杯目で気のあるようなそぶりを見せた木村翔に腹が立ってきた。祝福なんてしない。好きな人が幸せならそれでいいなんて偽善者のたわごとだ。
3杯目で私は愛される価値のない女なのだと悲しくなった。
私は誰にも愛されていないんだ。逢いたいと切なく思い、他の誰にも触れさせたくないと強く抱きしめてくれるような人がいないのだ。ひとりぼっちだ。泣きたい気持ちになったけれど、女がひとりバーで酔っぱらって泣くなんてみっともないと思ってこらえた。そういうプライドは残っているらしい。
4杯目を頼もうと思ったときにタイミング良く三田が前に立った。
「・・・世の中でたった一人ぼっちだって思ったことってありますか?」
私がそう尋ねると、三田はそれには答えず、わずかに悲しげに微笑んだ。それは、ありますよ、と言う意味なのか、何やら打ちひしがれている私に対して同情したためなのか分からなかった。
「マティーニは後にして、ちょっとひと休みにこちらをどうぞ。」三田は穏やかにそう言って小さめのワイングラスに注がれた黄金色の飲み物を私にすすめた。
グラスを口元に近づけるまもなく、甘い香りがふんわりと漂った。熟したバナナのような香り、オレンジ、杏、トロピカルフルーツ、バニラ・・・口に含むと蜂蜜のように甘い。でも酸味が良いバランスを取っていてただ甘いだけではない。甘やかな果実味が長く続いた。
ワインのボトルがそっと前に置かれ、Sauternesと書いてあるのが見えた。
「おいしいです。」というと、三田は嬉しそうに微笑んだ。
失恋してケーキをやけ食いする女性がいるけど、甘いものが精神を癒すというのは科学的に分析されているんだろうか。
軽くつまめるものをと、薄くスライスしたパン・オ・レザンにブルーチーズを乗せたものを出してくれた。
ブルーチーズのしょっぱさとレーズンの甘さがよく合っていて、そこにソーテルヌを飲むと甘さと酸っぱさとでまた楽しい味わいになる。

「勝算は5%、まいっか。」由美の口調をまねて心の中で言ってみた。
相変わらず私のハートは壊れちゃってるけれど、少しだけ元気に歩いてひとりで帰れそうだと思った。


甘口のワインはあまり積極的に飲まないのですが、ときどきとても恋しくなります。ワインスクールで甘口シリーズのレッスン日になんだか嬉しかったのを思い出します。ソーテルヌは世界3大甘口(貴腐)ワインのひとつ(他はトカイ・アスーエッセンシアとトロッケンベーレンアウスレーゼ)ですが、シャトー・ディケムのような高貴なお方(?)にはお会いしたことがありません。写真のシャトー・クーテはバルザック地区ですが、AOCソーテルヌを名乗っても良い1級格付けです。
トカイもTBアウスレーゼも好きですが、ソーテルヌは何となく特別な印象があるのはなぜでしょうね。その他にフランスの中だけでもロワール(コトー・デュ・レイヨン、ボンヌゾー、カール・ド・ショーム)、アルザスに(セレクション・ド・グランノーブル)貴腐ワインがありますね。
ソーテルヌにはフォアグラや、ブルーチーズ(ロックフォール)、フルーツタルトがマリアージュの定番とされています。デザートとして飲むのなら他に何もいらないかな、という気もします。
ちなみに甘いものが気持ちをなだめてくれるという科学的根拠ですが、ググッてみたところによれば、甘さを感じることにより、快感中枢が刺激され、脳内でエンドルフィンが分泌されるそうです。エンドルフィンは、人のこころをリラックスさせて、病気への抵抗力も高めるホルモンなんですって。ふ〜〜ん。
ところで、木村翔の低音ベルベットヴォイスはやはり谷原章介さんでしょうか。あのようなお声でそんな風に言われたら私だってノックアウトです。  

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